「誓い」と「名前」どっちが大事?といわれましても|歎異抄第11条

やっほー☆

じゃあ歎異抄の第11条をギャル語で翻訳してみるね!

歎異抄 第11条 原文

まず、原文はこんな感じ♪

一文不通いちもんふつうのともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議せいがんふしぎを信じて念仏申すか、また名号不思議みょうごうふしぎを信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細しさいをも分明ぶんみょうにいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、このじょう、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。

誓願せいがんの不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号みょうごうあんじいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束おんやくそくあることなれば、まづ弥陀みだ大悲大願だいひだいがんの不思議にたすけられまゐらせて生死しょうじづべしと信じて、念仏の申さるるも如来にょらいおんはからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応そうおうして実報土じつぽうど往生おうじょうするなり。

これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足ぐそくして、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。

つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪ぜんあくのふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様ふたようにおもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生のごうをはげみて申すところの念仏をも自行じぎょうになすなり。

このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。

信ぜざれども、辺地懈慢へんじけまん疑城胎宮ぎじょうたいぐにも往生して、果遂かすいがん(第二十願)のゆゑに、つひに報土ほうどしょうずるは、名号不思議みょうごうふしぎのちからなり。

これすなはち、誓願不思議せいがんふしぎのゆゑなれば、ただひとつなるべし。

叶音☆かのん

これをわかりやすくするね♡

ギャル訳-第11条-

まずさ、一字も読めない人たちが一生懸命念仏してるときに、

「お前は誓願(阿弥陀様の誓い)の不思議を信じてるの?それとも名号(阿弥陀様の名前)の不思議を信じてるの?」

って聞いて、はっきり説明もしないまま脅して、みんなを混乱させちゃう人がいるみたいなの。

それってマジでやめて!って感じなのよ。

ちゃんと注意して考えなきゃダメな問題よね。

さて、ここから本題なんだけど、阿弥陀様の誓願って、私たちの理解とか計算を完全に超えてるのね。

それで、念仏がめっちゃ覚えやすくて唱えやすい名前(名号)を作り出してくれたの。

しかも、「この名号を唱える人は必ず迎えに行くよ!」って約束してくれてるの。

だから、まずこの阿弥陀様の大きな慈悲と誓願の不思議に助けられて、私たちは生死の苦しみから抜け出せるんだよ!って信じてるわけ。

で、念仏を唱えるのも、全部阿弥陀様のおかげだから、私たちの努力とか考えなんて全然混じってないのね。

だからこそ、阿弥陀様の本願のお約束にピッタリ合って、最終的に真実の報土(極楽浄土)に行けるってこと☆

ここがポイントなんだけど、誓願の不思議を信じると、自然と名号の不思議も信じることになるのね。

つまり、誓願と名号の不思議って、別物じゃなくて、実は一緒のものなのよ〜って教えてるの。

でも、もし自分の力や考えを持ち込んで、「善いことしたら極楽に行けるけど、悪いことしたら邪魔されちゃう」とか、いろいろ考えちゃうと、それって誓願の不思議を信じてないことになるんだよね。

そうなると、念仏してても「これで浄土に行ける!」って自分の行いとして考えちゃってて、それが自力の行(=自分の力でやる修行)になっちゃうの。

この人は名号の不思議も信じてないってことになるんだよね。

でもさ、たとえ名号の不思議を信じてなくても、念仏をしていれば、阿弥陀様はちゃんと辺地や懈慢界(浄土の一部だけどちょっと遠い場所)に連れて行ってくれるのね。

そこから、最終的には阿弥陀様の誓い(第二十願)のおかげで、ちゃんと真実の報土に行けるってわけ。

それも、結局は名号の不思議の力のおかげなんだよ!

だから、誓願の不思議と名号の不思議って、やっぱりひとつなんだって話♡

要するに、誓願も名号も、阿弥陀様のパワーがすごすぎて、全部繋がってるってこと☆

こんな感じのことを言ってるよ!

叶音☆かのん

聖道門的な「自分の力に頼る考え」で、本願念仏の教えを誤解している人たちが出てきたって話なの。

まず、異議として挙げられてるのは「本願を信じること」と「名号の力を信じること」を別々に考えることね。

法然さんの教えのもとで、「名号を唱えて善根を積んで往生しよう」っていう考え方が出てきて、それが問題になったんだって。

逆に、「阿弥陀様の誓願を信じたら、もう名号を唱える必要はないよ」っていう主張も出てきたの。

これもまた間違った考え方で、結局どちらも「自分の力でどうにかしよう」っていう自力の考え方が原因なんだよね。

これって、如来(仏様)の計らいを忘れて、自分中心で解釈しちゃってるってことなの。

親鸞さんは「本願と名号は一つだよ!」って教えて、こういう誤解を諭してるんだ。

つまり、名号を称えるのも阿弥陀様の誓願のおかげであり、だからこそ自分の考えに頼らずに、仏様の計らいに任せていくべきだってことを伝えてるんだよ☆

じゃあ次は歎異抄第12条をわかりやすくするね!