やっほー☆
じゃあ歎異抄の第13条をギャル語で翻訳してみるね!
もくじ
歎異抄 第13条 原文
まず、原文はこんな感じ♪
この条はけっこう長いね〜☆
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と仰せの候ひしあひひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへす候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべしと、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしととおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。
そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」とあそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。
持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。
かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。
さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。
また、「海・河に網をひき、釣りをして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただ同じことなり」と。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場に入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば、善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ他力にては候へ。
『唯信鈔』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。
おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候ふげなれ。
それは願にほこらるるにあらずや。
いかなる悪を本願ぼこりといふ。
いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。
かへりてこころをさなきことか。
ギャル訳-第13条-
まずさ、阿弥陀様の本願ってすっごく不思議で、スゴいパワーがあるの。
でもね、「じゃあ悪いことしても平気じゃん!」って思ってる人、それは「本願ぼこり」っていって、そんなノリだと極楽往生できないよ〜!って話☆
本願に甘えすぎて、善とか悪とか、カルマの流れをちゃんとわかってない証拠なのよ♡
善い心が出るのも、過去のいいカルマのおかげだし、悪いこと思いついちゃうのも、過去の悪いカルマが原因なの。
親鸞聖人も、
ウサギの毛先についたホコリレベルの罪でも、全部過去の業(カルマ)によるものだよ!
って言ってるから、もう全部カルマのせいなのよ!
でね、ある時親鸞様が唯円に
私の言うこと信じる?
って聞いて、唯円が
はい!信じます!
って答えたら、
じゃあ、人を1000人手を掛けてみな。
それで極楽行けるから!
って言われたんだって!
唯円が
え、いやいや、私そんなことできません〜!
って言ったら、親鸞聖人は
ほら、信じるって言ったのに、何で疑うの〜?
ってツッコミ☆
そこで親鸞聖人が教えたかったのは、
もし何でも心のままに生きられるなら、千人でも害してしまうかもしれないけど、実際にできないのはカルマがそうさせてるだけで、自分の心が良いからやらないってわけじゃないよ!
逆に、害するつもりなくても、やってしまうことだってあるの!
ってことよ☆
だから、自分が善とか悪とか判断して、「これで助かる、これはダメ」って決めるんじゃなくて、阿弥陀様の不思議な力で助けてもらうんだよ〜ってことを教えてくれてるの!☆
で、昔ね、「阿弥陀様は悪人を助けるから、わざと悪いことして往生しよう!」って思ってた人たちがいたんだって!
でも、それっておかしいよね?
だから親鸞様は
薬があるからって、わざわざ毒を飲むなんてアホかよ!
って言って、その間違いを正したの。
悪いことが往生の邪魔になるわけじゃないけど、わざと悪いことをするのも違うでしょ〜って話☆
さらに、
戒律守らないと本願信じられないなら、私たちみたいな凡人はどうやってこの迷いの世界から抜け出すのよ〜?
って言って、そんな凡人でも阿弥陀様の本願に救われることがわかって、みんなが感謝してるのよ♡「本願に甘える」ってのはそういうこと!
でもね、だからってわざわざ悪いことをしようってのは間違いだよ〜☆カルマがないと、悪いことだってできないしね。
まず、親鸞聖人が言ってるのはね、
漁師だろうが、狩りをしてる人だろうが、商売してる人だろうが、畑耕してる人だろうが、生き方ってみんな同じだよ!
カルマ(業縁)によって、どんな生き方もすることになるんだよ〜!
ってこと。
だから誰が何して生きてても、カルマ次第でそうなるんだし、特別じゃないのよってことね☆
でも最近はさ、「後世のために善人にならなきゃ!善人じゃないと念仏できないし〜」って感じで、変なルール作ってる人がいるんだって。
例えば「この人は○○したから道場に入れません!」って張り紙貼って入場禁止にしてるの。
これってさ、外見は賢くて清いフリしてるけど、実際の心はウソだらけってことだよね〜。
で、「本願に甘えて罪を作ってる!」とか言うけど、実は本願に甘えて罪を作ってるんじゃなくて、罪を作るのも結局は宿業(過去のカルマ)が働いてるからなのよ☆
だから、善いことも悪いことも全部カルマ任せ!
それを丸ごと阿弥陀様が引き受けてくれるからこそ、他力(阿弥陀様におまかせ)で救われるってことなの〜♪
親鸞様が尊敬してた聖覚法印って人が書いた『唯信鈔』にも、
「阿弥陀様ってどれだけパワーあるのか知ってる?阿弥陀様の力でも救えないほど罪深いなんて思ってるの?」
ってバッチリ書いてあるのよ。だから、阿弥陀様におまかせすれば、大丈夫ってことね♡
そしてね、「本願に甘えてる心」があってこそ、阿弥陀様に頼る信心がしっかり決まるんだって。
もし「悪いこと全部やめてから本願を信じよう!」なんて考えだったら、そんなの本願に甘える心なんて持てないよね。
でもさ、煩悩を全部断ち切れちゃったら、その瞬間にもう仏様になっちゃうじゃん!
そしたら阿弥陀様が五劫もの間考えた本願、もういらなくなっちゃうじゃん?それはおかしいでしょ!
だから、「本願に甘えるな!」とか言ってる人たちも、実は煩悩(心の汚れ)を持ってるはずなのよ。
それって、本願に甘えてることと同じじゃない?
どんな悪が本願に甘えることなのか、逆にどんな悪が甘えじゃないのかなんて、そんなこと言ってる時点でしょうもない考え方だよね〜って話♡
つまり、「本願に甘えるな!」なんて言うより、全部阿弥陀様に任せちゃって念仏唱えるのが一番!ってことよ〜☆
こんな感じのことを言ってるよ!
自力を頼ってる人たちが「本願誇り」って言って、他力信仰の人を非難してるんだけど、その批判はズレてるの。
彼らは「悪いことを恐れ、善を励むべき!下賤な職業は恥じるべき!」とか言ってるけど、それって聖道門の自力の考え方なのよ。
でも悪い心が起こるのも、悪いことをしちゃうのも、全部過去の業(カルマ)が原因。だから、職業の高い・低いとか、犯す悪事も業縁次第で、その人の心や性格とは関係ないの!
阿弥陀様の本願は、「善人だから救われる」わけじゃなくて、みんなが宿業に縛られてることを見抜いて「そのまま」救うっていうもの。
だから、自分の力で救われようとするのは、むしろ未熟な考えなんだよってこと☆
じゃあ次は歎異抄第14条をわかりやすくするね!
これをわかりやすくするね♡