お布施の額で仏の大きさが決まる?んなわけないでしょ☆|歎異抄第18条

やっほー☆

じゃあ歎異抄の第18条をギャル語で翻訳してみるね!

歎異抄 第18条 原文

まず、原文はこんな感じ♪

仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。

この条、不可説なり、不可説なり。

比興のことなり。


まづ仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。

かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。

法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。

念仏もうすに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。

かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。

一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。

すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。

叶音☆かのん

これをわかりやすくするね♡

ギャル訳-第18条-

「お布施の量によって仏の大きさが決まる」なんて話、絶対ありえない!

そんなこと言うなんて、マジでとんでもない話だよ。

そもそも、仏に大きいとか小さいとか、そんな区別はつけられないし、あるはずもないのよ。

阿弥陀様の姿が経典に書かれてるのも、それは方便の姿として見せてるだけで、本当の悟りを開いた仏様は、形も色も超越してるから、大きさなんて決められるはずないじゃん?

念仏を唱えてるときに「仏様の姿が見える」ってことがあるけど、それに対して「大きい声で念仏したら大きい仏様が見えて、小さい声だと小さい仏様が見える」って経典に書いてあるのよ。

それを無理やりこじつけて、お布施の量で仏様が変わるとか言ってんのかもね。

でもさ、どれだけ高価な宝物をお布施しても、信心がなかったら何の意味もないんだよ。

逆に、少しのお布施でも、本願の他力に心を預けて深い信心があれば、それこそが阿弥陀様の願いにかなうってことなの♡

結局、この話を広めてる人たちは、仏法を利用して自分の欲を満たそうとしてるだけ。

だから、同じ念仏仲間を脅してお布施させようとしてるんだよね。

こんなの、本当の仏教じゃないから気をつけてね〜!

こんな感じのことを言ってるよ!

ここまで読んできてどうだった?

叶音☆かのん

歎異抄の後半でずっと言ってるのは、「学者ぶった僧侶たちが、自分の知識をひけらかして、念仏してる普通の人たちを見下して、”こうしなきゃダメ!”って脅してるのに対する嘆きと怒り」ってこと。

こういう人たちは、釈迦様の教えからズレちゃったり、阿弥陀様の本願を歪めたりして、勝手なことを言ってるんだけど、それには自力で修行する聖道門的な考え方だけじゃなくて、自分の特権とか名声を守りたいっていうエゴが隠れてるわけ。

で、これってただ違う意見っていうレベルじゃなくて、阿弥陀様の悲願に対する超重大な裏切り行為だよねってことを鋭く指摘してるの。

じゃあ次は歎異抄後序をわかりやすくするね!