自力が目をくもらせる!念仏が修行や善行にならない理由|歎異抄第8条

やっほー☆

じゃあ歎異抄の第8条をギャル語で翻訳してみるね!

歎異抄 第8条 原文

まず、原文はこんな感じ♪

念仏は行者のために非行ひぎょう非善ひぜんなり。

わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行ひぎょうといふ。

わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善ひぜんといふ。

ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者ぎょうじゃのためには非行ひぎょう非善ひぜんなりと云々うんぬん

叶音☆かのん

これをわかりやすくするね♡

ギャル訳-第8条-

簡単に言うと、念仏って、念仏を唱える人にとっては「修行」とか「善いこと」じゃないよって話なのね。

なんでかって言うと、念仏は「これで極楽行きになろう!」って自分の考えでやるものじゃないから「修行」じゃないし、「良いことをして功徳を積もう」っていう自分の考えでやる善行でもないから「善」でもないの。

念仏は全部、阿弥陀様の他力によるもので、自分の力じゃないから、修行でも善でもないんだよってことを教えてるんだよ☆ね☆

こんな感じのことを言ってるよ!

叶音☆かのん

この文章は、「自力を捨てて他力を頼る信心」について説明してるんだよ。

特に、「念仏って修善じゃないの? 自力でやる修行と似てるんじゃない?」って疑問に答えてるの。

要するに、何が「自力の心」か、何が「他力に頼る姿」かをハッキリさせてるんだね。

自分の考えや努力に頼ろうとするのが「自力」で、それが阿弥陀様の力を見失う原因だよって教えてるの。

簡潔に、「自分の思いこそが他力を見えなくさせるんだ!」ってことを示してるよ☆

じゃあ次は歎異抄第9条をわかりやすくするね!