念仏しても嬉しくない!浄土に行きたいとも思わないのはなぜ?|歎異抄第9条

やっほー☆

じゃあ歎異抄の第9条をギャル語で翻訳してみるね!

歎異抄 第9条 原文

まず、原文はこんな感じ♪

念仏申しさうらへども、踊躍歓喜ゆやくかんぎのこころおろそかにそうろふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころのそうらはぬは、いかにとそうろふべきことにてそうろふやらんと、申しいれてそうらひしかば、親鸞もこの不審ふしんありつるに、唯円房ゆいえんぼうおなじこころにてありけり。

よくよくあんじみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生おうじょう一定いちじょうとおもひたまふなり。

よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは煩悩ぼんのう所為しょいなり。

しかるに、ぶつかねてしろしめして、煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶおおせられたることなれば、他力の悲願ひがんはかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

また、浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労しょろうのこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩ぼんのう所為しょいなり。

久遠劫くおんごうよりいままで流転るてんせる苦悩くのう旧里きゅうりはすてがたく、いまだうままれざる安養浄土あんにょうじょうどはこひしからずそうろふこと、まことによくよく煩悩ぼんのう興盛こうじょうそうろふにこそ。

なごりをしくおもへども、娑婆しゃばえんきて、ちからなくしてをはるときに、かのへはまゐるべきなり。

いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

これにつけてこそ、いよいよ大悲大願だいひだいがんはたのもしく、往生は決定けつじょうぞんそうらへ。

踊躍歓喜ゆやくかんぎのこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたくそうらはんには、煩悩ぼんのうのなきやらんと、あやしくそうらひなましと云々うんぬん

叶音☆かのん

これをわかりやすくするね♡

ギャル訳-第9条-

唯円房が親鸞さんに、こんな質問をしました。

唯円

念仏してるけど、経典にあるみたいな『わーい!極楽行ける!』って踊り上がるくらいの喜びが湧いてこないし、早く浄土に行きたいって気持ちもあんまりないんだけど、どうしたらいいんですか?

そしたら親鸞さんが、

親鸞

実は私も同じ疑問持ってたよ!

でもそれでいいのよ!

って言うの。

よくよく考えてみたらさ、本来めちゃくちゃ喜んでいいはずのことを喜べてない自分だからこそ、逆に往生(=極楽に行くこと)は間違いないって思うわけ!

なぜなら、喜べないのは私たちが煩悩まみれだから。

でもね、阿弥陀様は、最初から

阿弥陀如来

煩悩まみれの人間たちを救うために本願を立てたよ

って言ってくれてるの!

だから、「あー、阿弥陀様ってこういう私たちのためにいるんだ!」って知ると、ますます安心できるわけ♡

それに、「早く浄土行きたい!」って思えないのも、ちょっと具合悪くなったら「死んじゃうかも、どうしよ〜」って不安になるのも、全部煩悩のせいなのね。

だって、ずっと生まれ変わりを繰り返してきたこの迷いの世界が、どんだけ苦しくても馴染み深いから捨てづらいし、まだ見たこともない浄土はそんなに恋しく思えないのも当然ってこと。

これも煩悩が強すぎるからだって話なのよ。

でもね、阿弥陀様は、そういう「まだ現世に未練たらたら〜」な私たちを特に哀れんでくれて、救ってくれるんだって!

だからこそ、阿弥陀様の大きな本願って、ほんとに頼りになるし、往生は間違いないってことなの。

逆に、「浄土行きたい〜!」「超嬉しい!」ってなってたら、「あれ?煩悩なくなっちゃったの?」って逆に不安になるくらいよ、って親鸞さんは言ってるのね。

つまりさ、喜びが足りないとか、浄土に急ぎたい気持ちがなくても全然大丈夫☆

むしろ、煩悩まみれだからこそ、阿弥陀様の救いの対象になってるんだよ!

って話なの♡

こんな感じのことを言ってるよ!

叶音☆かのん

この条は2つのポイントを中心に説明してるんだよね。

1つ目は、喜ぶべきことを喜ばない「煩悩まみれの私たち」を見越して、阿弥陀様は大きな悲しみの心(大悲)で本願を立ててくれた、ってこと。

これを知ることで、「自分も極楽に行ける!」って確信できるんだってこと。

2つ目は、「早く浄土に行きたい!」って気持ちがなくて、病気になると不安で心細くなるのも、これまた煩悩のせいだってこと。

でも、阿弥陀様の本願は、そんな煩悩まみれの自分たちをも抱きしめて救ってくれるって話なの。

つまり、浄土への大きな慈悲や菩提心も、阿弥陀様の力によるもので、自分の心の中にあるわけじゃなく、他力で支えられているんだってことなの☆

じゃあ次は歎異抄第10条をわかりやすくするね!