やっほー☆
じゃあ歎異抄の後序その3をギャル語で翻訳してみるね!
文章が長いから、記事を分けてお届けしてるよ☆
もくじ
歎異抄 後序その3 原文
まず、原文はこんな感じ♪
聖人のつねの仰せには「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。
まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。
そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。
このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
ギャル訳-後序その3-
親鸞聖人がいつも言ってたんだけど、
阿弥陀様が昔、五劫も悩んで考えた本願って、実は親鸞一人を助けるためだったんだよね〜!
こんなヤバい罪だらけの私を絶対に救ってくれるって、もうマジでありがたい〜♡
って、めっちゃしみじみ話してたの!
で、今改めて考えてみると、善導大師が言った「自分はめっちゃ罪深くて、ずっと迷いまくってる凡夫だし、抜け出す方法なんてないってちゃんと気づけよ」っていう言葉と、親鸞様の言ってたこと、超同じじゃん!
って感じよね。
親鸞様が自分のことに重ねて教えてくれたのも、私たちが、自分の罪深さも全然わかってないし、阿弥陀様の恩のデカさも全然気づいてないから、それをしっかり教えてくれたんだよね〜。
でもさ、実際のところ、みんな「これが善だ!あれが悪だ!」って言い合ってばっかでさ〜、ほんとヤバいよね。
親鸞様はこう言ってたのよ。
善も悪も、凡夫の私たちには全然わかんないんだよ!
如来(仏様)の目で善悪を見通せたらそれが本当の善悪だけど、私たちは煩悩の塊で、この無常の世界じゃ善悪なんて全部まぼろし〜。
その中で、マジで唯一信じていいのは念仏だけ!
ってね♡
でもさ、一番イタイのはこれ!
信心について話してるときとか、他の人に説明するときに、相手を黙らせるために、親鸞様が言ってないことを「これ親鸞様が言ったんだよ〜!」って言い出す人!
マジでありえないし、ほんと悲しくなるって思うの。
だから、ここはマジでちゃんと考えて、絶対気をつけてね〜!って話だよ☆
こんな感じのことを言ってるよ!
めっちゃ大事なのは「如来のご恩」、つまり、罪だらけの私たちを救おうっていう仏様の大きな慈悲の心!
でも、今の現状はみんなその仏様の大きな愛(大慈悲)を忘れちゃって、善悪の因果とかばっかり議論してるってわけ。
親鸞様は「善悪っていうのは、如来の知恵で見通せるものであって、私たちの自力でどうこうできるものじゃない」って言ってたの。
人間の考えとかは全てウソみたいなもんで、唯一の真実は念仏だけだってことね!
結局、善悪でどうこうするっていう人間のはからいが問題の原因だってことを指摘してるのよ。
そして、親鸞様が言ってないことを、勝手に「親鸞様がこう言った!」なんて言っちゃうのは、絶対にダメ!それをすごく強く戒めてるの。
じゃあ次は歎異抄後序その4に続くよ!
これをわかりやすくするね♡