やっほー☆
じゃあ歎異抄の第6条をギャル語で翻訳してみるね!
もくじ
歎異抄 第6条 原文
まず、原文はこんな感じ♪
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこときはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
ギャル訳-第6条-
親鸞聖人が言ってんのは、
専修念仏って言って、ただひたすら念仏する仲間同士で『あの子は私の弟子!』とか『あの子はあなたの弟子!』って言い合ってるの、マジありえないし!
ってこと☆
なんでかっていうと、親鸞さんは
弟子なんて一人も持ってない!
って断言してるの!
だって、もし自分の力で誰かに念仏をさせてるんなら、「私の弟子」って言ってもいいかもだけど、実際そうじゃないの。
阿弥陀如来のパワーでみんな念仏してるんだから、そんな人を「私の弟子」なんて呼ぶのは、めっちゃおかしいし、イケてないよってこと♡
さらにさ、縁があれば一緒にいるし、縁がなくなれば離れることもあるんだから、もし誰かが「師匠に背いて、他の人について念仏するなら往生(極楽に行けること)できないよ」なんて言うのは、絶対NG!
それはもう間違いだし、言っちゃダメって話♪
信心ってのは、如来(仏様)からもらったものだから、それを「自分が与えたもの」みたいに言うなんて超ヤバイ!
そういうの、ホントにありえないよねって強調してんの。
だから、仏様のパワーで念仏ができたら、自然と仏様への感謝も、師匠への感謝も分かるようになるよって教えなの☆
めっちゃシンプルに言うと、「全部阿弥陀如来のおかげ!弟子とか師匠とか関係ないし、感謝を忘れないでね♡」ってことよ☆
こんな感じのことを言ってるよ!
この章では、「自力を捨てて他力に頼る」とはどういうことかを、師弟関係に照らして考えてるの。
弟子を「自分のもの」と考えることは、念仏の教えを自分のものだと思うことと同じ間違いだって言ってるのね。
つまり、仏さまの力を無視して、自分の力でコントロールしようとするのはダメだよ、ってこと。
本当は、信心や念仏は全部阿弥陀如来の導きであり、それに任せることこそが「他力を頼る姿」だと教えてるんだよ☆
じゃあ次は歎異抄第7条をわかりやすくするね!
これをわかりやすくするね♡